はじめに|中国で発展した二胡は、どのように日本へ?
これまで「曽朴の二胡ブログ」では、二胡の起源や歴史をはじめ、周少梅、劉天華、阿炳、そして劉天華の三大弟子である儲師竹・陳振鐸・蒋風之、王国潼、閔恵芬、趙寒陽、宋飛、劉文金など、中国における近代・現代二胡の発展に大きな役割を果たした人物や作品についてご紹介してきました。
長い歴史の中で生まれた二胡は、20世紀に入ると、演奏技術、楽器構造、作品、教育方法などが大きく発展し、中国を代表する民族楽器の一つとなりました。
では、その二胡は、
いつ日本に伝わり、どのように日本で広がっていったのでしょうか。
現在の日本では、二胡のコンサートだけでなく、二胡専門教室、音楽教室、カルチャーセンターなど、さまざまな場所で二胡を学ぶことができます。
しかし、数十年前までは状況が大きく違っていました。
「二胡」と言っても、どのような楽器なのか知らない人も多く、日本の伝統楽器である「胡弓」と混同されることも珍しくありませんでした。
今回は、中国で発展してきた二胡が日本でどのように知られ、
「聴く楽器」から「自分で習い、演奏する楽器」へと広がっていったのか。
日本における二胡の歴史と普及の歩みをたどってみたいと思います。
二胡はいつ日本に伝わったのか?
「二胡は何年に初めて日本へ伝わったのでしょうか?」
この疑問を持つ方も多いと思います。
しかし、二胡の日本への伝来について、
「○年に、○○という人物が初めて日本へ二胡を持ち込んだ」
と一つの年や人物に限定することは簡単ではありません。
日本と中国の間には古くから文化交流があり、中国音楽や中国の民族楽器も、さまざまな形で日本へ紹介されてきました。
また戦後にも、中国の芸術団や音楽家による訪日公演などを通して、二胡を含む中国民族楽器が日本で演奏される機会がありました。
そのため、
「二胡が日本で初めて演奏された時期」
と、
「現在につながる形で二胡が日本社会に普及した時期」
は、分けて考える必要があります。
現在の日本における二胡文化につながる大きな流れを見ると、特に1980年代後半から1990年代以降が重要な時期だったと考えられます。
日本の「胡弓」と中国の「二胡」は別の楽器
日本で二胡の歴史を考えるうえで、知っておきたいのが「胡弓」という名称です。
現在でも二胡を見て、
「中国の胡弓ですね」
と言われることがあります。
しかし本来、
中国の二胡と、日本の伝統楽器である胡弓は別の楽器です。
楽器の構造、演奏方法、音色、そして歴史的背景も異なります。
二胡がまだ日本で広く知られていなかった時代には、中国の擦弦楽器を日本人に分かりやすく説明するため、「中国胡弓」などと呼ばれることもありました。
そのため日本では長い間、
「二胡」という正式名称より、「胡弓」という言葉の方が通じやすい時代
があったのです。
1990年代初頭に来日した中国人演奏家の回想にも、二胡と日本の胡弓を混同する人が多かったという話があります。
現在では「二胡」という名前が広く知られるようになりましたが、これも日本における二胡普及の大きな変化の一つと言えるでしょう。

1980年代後半|中国人二胡演奏家の来日
現在の日本における二胡普及を考えるうえで、大きな転換期の一つとなったのが1980年代後半です。
中国では1978年以降、改革開放が進み、海外との文化交流も活発になっていきました。
その中で、中国で二胡を学び、演奏活動をしていた演奏家たちが、日本へ留学したり、日本を活動拠点としたりするようになります。
代表的な演奏家の一人が、賈鵬芳(ジャー・パンファン)です。
賈鵬芳は、中国中央民族楽団で二胡奏者として活動した後、日本へ留学。
その後、日本全国でのコンサート、CD制作、映画やテレビ、CMなど幅広い分野で、二胡の音色を紹介していきました。
こうした演奏家が日本を拠点として継続的に活動するようになったことで、それまで二胡を直接見る機会がほとんどなかった日本人も、
実際の二胡を見て、その音色を聴く
機会が増えていきました。
1990年代|二胡の音色が日本各地へ
1990年代になると、日本で活動する中国出身の二胡演奏家はさらに増えていきます。
コンサートホールだけではありません。
地域の文化施設、学校、イベント、福祉施設など、さまざまな場所で二胡が演奏されるようになりました。
さらにテレビ、ラジオ、CD、映画などを通して、実際にコンサートへ行かなくても二胡の音色を耳にする機会が増えていきます。
この時代、日本における二胡の知名度を高めた演奏家の一人として、チェン・ミンの存在も欠かせません。
チェン・ミンは中国で二胡を学んだ後、日本へ留学し、日本を拠点に演奏活動を展開しました。
コンサートやCDだけでなく、テレビ、映画、CMなどさまざまなメディアを通して、多くの日本人に二胡の音色を届けました。
特に1990年代後半から2000年代にかけて、二胡が一般の人々にも知られるようになる中で、チェン・ミンの活動も大きな役割を果たしました。
こうして、
「この楽器は何だろう?」
「人の声のような美しい音ですね」
「自分でも弾いてみたい」
という人が少しずつ増えていきました。
二胡は、
「中国にある珍しい民族楽器」
から、
「日本でも聴くことのできる身近な楽器」
へと変化していったのです。
日本での普及に大きな役割を果たした「日本の曲」
日本で二胡が広がっていった理由を考えると、私はもう一つ重要なことがあったと思います。
それが、
日本人がよく知っている日本の曲を二胡で演奏したこと
です。
中国の二胡名曲だけではなく、
「荒城の月」
「浜千鳥」
「春の小川」
「夕焼け小焼け」
など、日本人にとってなじみ深い童謡や唱歌も二胡で演奏されるようになりました。
日本人が昔から知っている旋律を、二胡独特の柔らかく、人の声にも似た音色で聴く。
そこには、中国の伝統曲を初めて聴くときとは違う親しみがあります。
二胡は中国の民族楽器ですが、日本の歌を二胡で奏でることによって、
「外国の珍しい楽器」から「自分にも親しめる楽器」へ。
この変化も、日本で二胡が広がる大きな力になったのではないでしょうか。
「聴く二胡」から「習う二胡」へ
演奏を聴いて二胡に魅力を感じる人が増えると、次に生まれるのが、
「私も二胡を弾いてみたい」
という気持ちです。
ここから、日本における二胡普及は次の段階へ入っていきます。
つまり、
「聴く二胡」から「習う二胡」へ。
1990年代から2000年代にかけて、中国人二胡演奏家による個人指導だけでなく、二胡教室やカルチャーセンターなどでも二胡講座が開かれるようになっていきました。
二胡を習う人が増えれば、当然、
楽器が必要になります。
教本が必要になります。
伴奏音源も必要になります。
そして、二胡を教える講師も必要になります。
こうして日本における二胡は、
演奏だけではなく、教育・教材・楽器という分野へも広がっていきました。

2003年前後|中国民族楽器への関心が一気に高まる
日本における中国民族楽器の知名度を考えるうえで、2000年代初頭も非常に重要です。
その大きなきっかけの一つとなったのが、女子十二楽坊でした。
2003年、日本で大きな人気を集め、テレビや雑誌をはじめ、多くのメディアで紹介されました。
女子十二楽坊は二胡だけのグループではなく、二胡、琵琶、古箏、揚琴、笛など、さまざまな中国民族楽器を使って演奏するグループです。
しかし、日本の一般の人々が中国民族楽器の存在を知るうえで、その影響は非常に大きなものでした。
テレビで中国民族楽器を見る。
CDでその音色を聴く。
コンサートへ行く。
そして、
「この楽器を自分でも弾いてみたい」
と思う人が増える。
二胡にとっても、この時期は日本でさらに多くの人に知られる大きな機会となりました。

二胡教室・教材・愛好家が全国へ
2000年代に入ると、日本の二胡文化はさらに広がっていきます。
二胡専門教室だけでなく、
カルチャーセンター、音楽教室、地域の二胡サークル、個人教室など、さまざまな場所で二胡を学べるようになりました。
また、初心者向けの教本や曲集、伴奏CDなども増えていきます。
これは非常に大きな変化でした。
二胡を習いたいと思っても、先生も教材も楽器もなければ学ぶことはできません。
演奏家の活動だけではなく、
教える人、教材を作る人、楽器を提供する人、そして学ぶ人
が増えることで、初めて二胡が一つの文化として日本に根付いていきます。
日本人の二胡講師も育つ時代へ
日本で二胡を習う人が増えると、その中からさらに上達し、二胡を教えるようになる日本人も増えていきました。
これは、日本における二胡の歴史を考えるうえで重要な変化です。
最初は、中国出身の二胡演奏家から学ぶことが中心でした。
しかし、その生徒たちが長年学び、やがて次の人を教えるようになる。
つまり、
中国人演奏家
↓
日本人学習者
↓
日本人講師
↓
新しい学習者
という流れが生まれていきました。
ここまで来ると、二胡は単に海外から紹介された楽器ではありません。
日本の中で二胡を学び、教え、演奏する文化が育ち始めた
と言えるでしょう。

日本では、日本人に合った二胡教育も必要になる
二胡が日本に広がるにつれて、教育面でも新しい課題が生まれました。
それは、
中国で行われてきた二胡教育を、そのまま日本人初心者に当てはめてよいのか
という問題です。
中国では幼少期から二胡を始め、音楽学校や音楽大学を目指して毎日長時間練習する学習者も少なくありません。
一方、日本で二胡を始める方の多くは大人です。
40代、50代、60代、70代になってから初めて楽器を習う方もたくさんいます。
仕事や家庭生活を送りながら、限られた時間の中で練習する方も多いでしょう。
また、二胡で使われる数字譜や、中国音楽独特の表現方法に初めて触れる方もいます。
そのため日本では、
正しい二胡の基礎を守りながら、日本人の年齢、生活環境、練習時間、音楽経験に合わせて、どのように分かりやすく教えるか
ということが非常に重要になってきました。
これは、日本における二胡が、
「紹介される時代」から「学び、育てる時代」へ
進んだことを意味していると思います。
日本で二胡を広めたのは一人だけではない
「日本で二胡を広めたのは誰ですか?」
と聞かれることがあります。
しかし、日本における二胡の歴史を振り返ると、この問いに一人の名前だけで答えることは難しいと思います。
日本で二胡が今日まで広がった背景には、
中国から来日した多くの二胡演奏家。
日本で二胡を学んだ演奏家や講師。
コンサートを企画した人。
テレビ、ラジオ、映画、CM、CDなどを通して二胡の音色を紹介した人。
日本人向けの教材を作った人。
二胡教室を開いた人。
楽器を日本へ紹介し、購入や修理ができる環境を整えた人。
そして何より、
二胡の音色に魅了され、「自分も弾いてみたい」と学び始めた多くの愛好家。
こうした多くの人々の積み重ねによって、現在の日本の二胡文化が作られてきたのだと思います。
日本における二胡普及の流れ
日本における二胡普及の流れを大きく整理すると、次のようになります。
1980年代以前
日中文化交流や訪日公演などを通して、中国音楽や民族楽器が日本で紹介される。
1980年代後半
中国から二胡演奏家が来日・留学し、日本で継続的な演奏活動が行われるようになる。
1990年代
コンサート、地域活動、テレビ、ラジオ、CD、映画などを通して二胡の音色が少しずつ日本全国へ広がり、二胡を習う人も増えていく。
2000年代初頭
チェン・ミンをはじめとする二胡演奏家のメディアでの活躍や、女子十二楽坊の人気などによって、中国民族楽器への関心がさらに高まる。
2000年代以降
二胡専門教室、音楽教室、カルチャーセンター、教材、演奏団体、愛好家グループなどが広がり、日本人二胡講師も増えていく。
そして現在では、二胡は日本でも多くの人が学び、演奏し、楽しむ楽器になっています。
「中国の二胡」から、日本で育つ二胡文化へ
もちろん二胡は、中国で生まれ、長い歴史の中で発展してきた民族楽器です。
その歴史、伝統的な演奏技法、音楽表現を正しく理解し、受け継いでいくことは非常に大切です。
しかし、日本へ伝わった二胡は、日本人の生活や音楽文化の中でも新しい広がりを見せてきました。
中国の名曲を演奏する。
日本の童謡や唱歌を二胡で奏でる。
日本人が二胡を学ぶ。
日本人講師が次の世代を教える。
中国人演奏家と日本人演奏家が一緒に舞台に立つ。
こうした交流を何十年も積み重ねながら、
中国で育った二胡は、日本でも新しい二胡文化を作り始めた
と言えるのではないでしょうか。

まとめ|二胡の歴史は中国から日本へ
二胡は長い歴史の中で、中国の民間音楽や戯曲などとともに発展してきました。
20世紀に入ると、劉天華をはじめとする多くの音楽家によって、演奏技術、教育、作品が大きく発展しました。
さらに王国潼、閔恵芬、趙寒陽、宋飛、劉文金など、多くの演奏家・教育家・作曲家によって、現代二胡の世界はさらに広がっていきました。
そして20世紀後半、その二胡は中国の外へも広がっていきます。
日本では特に1980年代後半から1990年代以降、中国人二胡演奏家の来日、コンサート、CD、テレビ、映画、CM、教育活動などを通して、二胡が少しずつ知られるようになりました。
やがて、
「二胡を聴いて楽しむ」
だけではなく、
「自分でも二胡を弾いてみたい」
という人が増えていきます。
そして現在、日本には二胡を演奏する人、学ぶ人、教える人が数多くいます。
二胡が日本に広がってきた歴史を振り返ると、これは単に一つの外国の民族楽器が輸入された歴史ではありません。
音楽を通した中国と日本の文化交流の歴史でもあるのです。
では、日本で二胡を学ぶ人が増える中で、二胡教育はどのように発展してきたのでしょうか。
中国と日本では、学ぶ人の年齢や環境も大きく異なります。
次回は、
「日本における二胡教育の歩み」
について、日本で二胡教育がどのように発展し、現在の二胡教室や指導方法につながっていったのかを、さらに詳しく考えてみたいと思います。
